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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)227号~

何回かに分けて常不軽菩薩のことや仏性礼拝について学んでいます。今回も、『やくしん』(2018.12月号)の特集「常不軽菩薩に学ぶ―仏性礼拝行」の中から、常不軽菩薩の物語を学んでみましょう。

○あなたは仏になれる人です

過去の世に、威音王(いおんのう)という名の仏がおられました。威音王仏はすぐれた智慧によって衆生を導かれました。この仏がお亡くなりになり、その教えも忘れ去られようとする頃、一人の修行僧が現われました。特段、立派な様子もなく、どこにでもいるような風貌(ふうぼう)の僧で、人びとから「常不軽」というあだ名をつけられていました。なぜ「常不軽」と呼ばれたかというと、次のようなわけがあるのです。

当時は仏の教えが形だけ残っている時代でした。僧侶たちは教えを自分勝手に解釈しては、本当の悟りを得てもいないのに、悟ったかのように思い込んでいたのです。在家の信仰者も競って僧侶に供物(くもつ)を捧げるばかりで、教えを学ぼうという気持ちがありません。そんななか、この修行僧は寺や山林に籠(こ)もることなく、町や村に出て、人さえ見れば自分から近づいていき、丁寧に拝むのです。そして、「私はあなたを敬います。決して軽(かろ)んじたり、見下げたりはしません。あなたは菩薩の道を行じて、必ず仏になる方だからです」と言って讃歎(さんたん)するのでした。

この修行僧が拝んだのは、仏像でも経典でもありません。現実の社会で生活する“生きた人間”をこそ、拝んだのです。さらに、自分に危害を加えようとした者さえも、「あなたは仏になれる人です」と礼拝したのです。「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」といわれるように、すべての人は本来、仏としての本性 — 仏性を具えています。<誰もが仏性という尊い価値をもち、いつか必ず仏になれるのだと気づいてもらいたい>。そんな願いをもって、この修行僧は一人ひとりを拝み、その仏性を磨き出そうとしたのでした。

その真意が分からない人びとは、<変わったことをする男だ>と、相手にしません。また、厳しい修行を重ねてこそ仏になれるのだと信じていた僧侶たちは、経典を学びも読誦もしないこの修行僧を、「仏でもないのに、身の程知らずなことを言うな。そんないい加減な成仏の保証などいらない」と、口を極めて罵(ののし)るのでした。

人びとのなかには、自分がバカにされていると思って腹を立て、杖(つえ)や棒で叩いたり、石を投げつけたりする者さえいました。すると、修行僧は走ってその場から逃げ去り、遠くの方から「私には、どうしてもあなた方を軽んずることができません。あなた方は、必ず仏になる人たちだからです」と、なおも大声で唱えるのです。いつも変わらず「あなた方を軽んじません」と、同じことを言いますので、人びとはその修行僧に「常不軽」というあだ名をつけたのでした。

「常不軽」というあだ名をつけられるぐらいに、徹底して出会う方を拝む姿に感動と畏敬の念を持ちます。私だったらそんなことができるのだろうかと考えます。目の前の人を軽んじない、敬する気持ちを大事に、まずはこちらから挨拶をしていきたいと思います。

次回までよろしくお願いします。




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