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  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)228号~

何回かに分けて常不軽菩薩のことや仏性礼拝について学んでいます。今回も、『やくしん』(2018.12月号)の特集「常不軽菩薩に学ぶ―仏性礼拝行」の中から、常不軽菩薩の物語を学んでみましょう。

○仏性を信じて疑わない

<どんな人にも仏性がある>。たとえ頭ではそう理解できても、実際に自分が危害を加えられそうになったら、相手を「仏」として拝むのはなかなかできないものです。しかし、常不軽菩薩は自分がどんな目に遭(あ)おうと、言い返すことなく、怒りもせず、ひたすら相手を礼拝し続けます。それは、相手の表面の姿にとらわれず、人間の本質である仏性を認め、拝み、讃歎(さんたん)したからです。<人の仏性を信じて疑わないこと>。何よりそれが常不軽菩薩の礼拝行の第一歩なのです。

人から罵(ののし)られ、馬鹿にされながらも、常不軽菩薩はじっと耐え忍び、来る日も来る日も人を敬い続けます。こうして、常不軽菩薩は仏性礼拝というただ一つの行を続けることによって高い境地に達することができました。そして、過去世からの宿業(しゅくごう)を果たして命を終えようとする時、かつて威音王仏(いおんのうぶつ)が説かれた法華経の教えを、あたかも虚空から響いてくる声を聞くように自得(じとく)したのです。その教えをすっかり心に刻みつけましたので、身も心も浄(きよ)められ、寿命の増益(ぞうやく)を得たのでした。

その後、常不軽菩薩は広く人びとのために法華経を説きます。それまで常不軽菩薩を軽んじていた人たちも、この菩薩の偉大な力にすっかり心服し、その教えに耳を傾け、従うようになりました。常不軽菩薩は人びとに法を説いた功徳によって、この世の生を終えたあと、何度も何度も生まれ変わりながら、たくさんの仏に会い、それらの仏を供養し、人びとにも法華経を説きました。そして、ついに仏の悟りを得たのです。

この常不軽菩薩こそ、釈尊が過去世で菩薩として修行していた姿にほかなりません。常不軽菩薩を罵った人びとは、自ら教えを求めようとはせず、長い間、仏縁にふれず、苦しみの人生を送りました。しかし、その業(ごう)が消えたあと、再び常不軽菩薩に巡り会い、仏の道に入ることができたのでした。人の仏性を拝むふれあいは、いつか必ず芽を出すのです。仏縁の種をまく大切さを常不軽菩薩は教えてくれています。

【わたしの所感】

相手の表面の姿にとらわれず、人間の本質である仏性(仏の本性、仏になる可能性)を認め、拝み、讃歎(さんたん)するという、どこまでも、<人の仏性を信じて疑わないこと>に取り組んでいきたいものです。そのためには、まず相手に自分から挨拶をして、相手の話しをよく聴くことからはじまると思います。それが、相手を敬する第一歩だと思います。

次回までよろしくお願いします。


写真は福井駅にあった福井県を表したプラレールです。

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