私たちは、毎日さまざまな出会いをしています。嬉しくなるような出会いや悲しい出来事、感動する出会いもあれば、腹が立つような出来事など、人や出来事の出会いによって心はコロコロと動いていきます。私たちの心の中にはさまざまな心が存在しています。仏教では、私たちの心の中には十の世界があり、その一つ一つが互いに他の九界を具えていると説きます。そのことを十界互具(じっかいごぐ)と言います。
今回からは、十界互具について学んでいきたいと思います。今日は、会長先生のご著書『こころの眼を開く』(P271)から学んでみましょう。
○わが身に、仏も地獄もある
自分の内面を深く省(かえり)みると、善も悪も、共に具(そな)えていることがわかります。
仏さまのように慈悲にあふれた心根(こころね)から鬼畜(きちく)のように人を傷つける行ないに向かう愚かな心まで、合わせもっている自分であることに思い当たります。
このように、自分の心の状態を深く省みることを「内省(ないせい)」といいます。内省は、いちいちの行いの善(よ)し悪(あ)しを省みる反省とは違い、さらに全体的に深めていくのです。
仏教には「十界互具(じっかいごぐ)といって、仏から地獄までを十界に分けて、その一界に他の九界を具えている、という見方をしています。その意味で内省は十界互具の見方で、善も悪も、仏も地獄も、共に合わせもっている自分の全体を深く見ることです。
その内省によって、ときどきに陥(おちい)る錯覚(さっかく)にとらわれて右往左往(うおうさおう)している自分に気づいたとき、いかに狭小(きょうしょう)な自分であるか、という思いがわいてきます。自分の全体を知っているつもりでいても、ほんの一部分しか知っていなかった、その思い上がりに気づくのです。
ところで、「苦悩しているのはなぜか」ということを見つめるだけでは、内省とはいえません。苦悩している自分を見つめ「なるほど。私は仏さまの大事な教えを忘れていたのだ」と気づき、慈悲の心を生きていくとき、内省によって苦悩から救われていくのです。
信仰は自己を深く見つめることに尽きるでしょうが、善も悪も、仏も地獄も、共にある自分を見つめること—そこに内省があります。その意味で内省は信仰の原点でもあり、信仰そのものともいえそうです。
今回は、出会いによって自分の心にどんな心が湧くのかを見つめてみましょう。
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次回までよろしくお願いします。
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