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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)103号~

今回は「十界互具」とは何かを学んでいきましょう。


○十界互具(じっかいごぐ)

皆さんは自分自身をどのようにとらえていますか。心コロコロというように、自分の心は一つのところにとどまっていません。人間は決して一面的にとらえることができない存在です。内に聖なるものを秘めながら、一方では残虐(ざんぎゃく)な生きものであり、崇高(すうこう)であって卑劣(ひれつ)、醜悪(しゅうあく)でありながら限りなく崇高なものを心に秘めた存在であることがわかります。人間とはそうしたもろもろの可能性を内に秘めた存在であるというのが最も無難な解釈になるのでしょうが、仏教では、その人間を「十界(じっかい)」が互具(ごぐ)した存在として明確に定義づけています。

すなわち、人間は、地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間(にんげん)、天上(てんじょう)の六つの境界を輪廻(りんね)する心を持ちながら、同時に、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)、さらに仏(ぶつ・ほとけ)、という聖者のような心を持った存在であるというのです。

そしてすべての人間は、仏になれる可能性も地獄に落ちる可能性も備えており、十界のどこにでもいく因(可能性)を備えているのが人間であると解釈するのが、仏教の人間観であり、それが「十界互具」の教えです。仏さまの教えは、人間を悲観的に見たり楽観的に見たりするといった偏(かたよ)った見方はしません。人間のありのままを見て、その中で救いを考え、実行を促していく教えです。

ですから、誰もが仏になれるという可能性を信じつつ、自分が今、十界のどこをさまよっているのかをしっかりと見定めた上で、何を行じていくべきかを考えることが必要なのです。それによってこの教えの理解も容易に進むのではないでしょうか。


次回から、私たちが最も陥(おちい)りやすい六道の世界から話を進めていきたいと思います。


今日は、出会いによって自分の心にどんな心が湧くのかを見つめてみましょう。

気づき、発見、疑問、感想等があれば、コメント入力してください。

次回までよろしくお願いします。




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