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  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)115号~

今回は十界互具の最後、「仏界(ぶっかい)」について学んでみましょう。


○「仏界)」

「仏界」の精神は、ここで手短に語り尽くせるものではありませんが、私たち人間は、仏さまの生命(いのち)に生かされて存在しています。その大いなる生命は、ありとあらゆるものを、木なら木、花なら花、人間なら人間の姿のままでその存在を生かしきろうという絶対慈悲の精神です。

もちろんその大いなる心になりきろうとしてなりきれるものではありませんが、私たちは一瞬であっても、木々や花々、あるいは自分と関わり合う全ての人間がいとおしくなって、何かをせずにおれない清浄(しょうじょう)な心になることがあります。

つかの間のものであっても、その瞬間は自分の中に、仏の心を共に生きている心境を味わうことができるのです。

しかしおしむらくは、そうした心境は一瞬のうちに跡形もなく消え去ります。そして、再び人を怒ったり、嘆(なげ)いたり、見下したりして、元の愚かしい人間に戻ってしまうのが私たち人間の悲しい本性のような気がします。

しかし、これまで学んできてお分かり頂けたように、私たち人間の心の中には「地獄(じごく)」や「修羅(しゅら)」の世界と同時に、仏になる可能性も具わっているのです。私たちは十界のどこにでもいける因(可能性)を持ってこの世に生まれてきているのです。そして、人間は縁によっては十界のどこにでも行ける可能性を具えていると明らかにしたのが「十界互具(じっかいごぐ)」の教えです。


今回は、自分の心の中にある仏の心に目を向けてみましょう。


気づき、発見、疑問、感想等があれば、コメント入力してください。

次回までよろしくお願いします。




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