今回は、十界互具(じっかいごぐ)の振り返りとして、開祖さまのご著書「瀉瓶無遺」222(P308)から学んでみましょう。
「自分は自分、他人は他人」という傾向が極端に強い、いまの時代に、「まず人さま」とか「自体一体感」などと言われても、なかなかその気になれないというのが正直なところかもしれません。
「他己(たこ)」という言葉を「自分以外の他の人」というように解釈するむきもありますが、これは他の人も自分の延長線上に見ること、また、他の人の延長線上にある自分を意識することの大切さを教えたものと解釈しなくてはならないと思います。つまり相手の身になることであり、その自他一体の境地を深めるため
には「十界互具」についてのほんとうの理解が欠かせないと思うのです。
人間の本性は本来、善であるのか悪であるのかと議論する人がいますが、それよりもまず、ひとりの自分に善悪十界が具(そな)わっているという認識こそが大事だと思うのです。自分のなかに地獄から仏までの心があるということがほんとうにわかって初めて、相手を許し、相手に共感し、相手を信じることができるのです。その自覚なしに他者との一体感が生まれるものではないと思うのです。
法華経が教える十界互具の認識こそ、自他一体感の土台となるものです。たとえば間違いを犯した人を、ただ「だめじゃないか」と叱(しか)りつけるだけではなく、自分がその人と同じ立場にいたら、やはり同じ間違いをしていたかもしれない、という思いやりの気持ちが大切だということです。
今回は、十界互具をふり返り、出会いによって自分の心にどんな心が湧くのかを見つめてみましょう。
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次回までよろしくお願いします。
今晩は。コウジです。 いつもお世話になっています。🙏 今回は、他己(たこ)に掛けて凧(タコ)を使ってみたいと思います。 凧に糸を付けると、私の思いが凧に乗り移ったように風に乗って私と凧に一体感が生まれてきますよね。 この一体感が一種の他己感かなと思います。 気が付くとその私も実は凧であり、他の人の糸で繋がっていることに気づく。 私の体には、無数の糸が繋がれていたのです。 これだ! 他(人は自)己という話ができました。🙆 お粗末でした。🙏🙇