今回も、1993年11月の「佼成」開祖さまご法話、「出会いを大切にする ~来し方をふり返って~」から学ばせていただきます。
○動くほど因縁が結ばれる
人と人との出会い、あるいは人と自然との出会いは、一見偶然のように見えますけれども、けっして偶然ではありません。必然なのです。そうなるべき「因」があり、「縁」があってこそ起こるのです。
先ほどお話しした飯塚さんと、私と、そして新井先生との出会いも、どう考えてみても偶然とは思えません。つまり、仏教でいう「因縁」がしからしめた出会いというほかありません。
私は、そうした因縁はこの世に生じたものばかりとは思いません。法華経のいたるところで説かれているように、長い過去世のなかで生じた因縁が、この世になって現われているのです。そのことを思えば、どんな出会いもおろそかにできないという気持ちが湧いてきます。
過去世のことだけでなく、この世でつくった「因」は次の世でも、ある「縁」にふれてよき出会いとなり、あるいはよくない出会いとなるのです。このことを思えば、いまここでの生き方を正して、善い心と善い行ないを積み重ねていかなければならないのです。
最後に申し添えたいことは、「動けば動くほど出会いは生じる」ということです。法座でもそうです。黙っていては、自分が幸せになるような出会いは生じません。よき因縁は結ばれないのです。心を開いて自分の悩みを話し、相談し合ってこそ、お互いがともども幸せになっていく道が開けるのです。動けば動くほど、よい因縁が結ばれるのです。このことをよく心にとめておいていただきたいと思います。
どんな出会いにも必ず意義があり、その出会いは偶然ではなく必然であることを教えていただきました。
福井教会発足65周年記念式典を先日10日に、園布教相談役さんをお迎えして実施しました。皆さまありがとうございました。この機会に一緒に皆さんと周年式典を迎えることができたことも深い因縁であり、出会いだと感じています。
以前、同席対面五百生(どうせきたいめんごひゃくしょう)(対面同席五百生とも)ということを教えていただいたことがあります。これは、たまたま偶然にバスで隣り合ったり、たまたま喫茶店の向かいの席に座った見知らぬ人であっても、そのように同席したり対面したりする人というのは、これまで繰り返されてきた前の世で、五〇〇回は一緒に生きた人である、という意味です。そのように考えると、人との出会いは不思議であり、一つの一つの出会いは必然であり、その出会いを大切にしていきたいという心が湧いてきます。
今回は、出会いを大切にするために、まず出会う目の前の人の話をよく聞いてみましょう。
次回までよろしくお願いします。
コメント(気づき、発見、疑問、感想等)があれば記入してください。
Коментарі