いよいよ1月20日~2月3日までの寒中読誦修行がはじまります。大寒という一番条件が厳しい中で、法華三部経を読誦させていただきます。寒中読誦修行の心構えを写真データとPDFファイルでも添付しましたので、よくお読みいただき、皆さんで心ひとつに取り組んでいきたいと思います。
寒修行のことが述べられているご法話を探していたら、会長先生のご法話で次のものがありました。「楽しく生きる」(『佼成』2018年5月)です。
少し前の話になりますが、今年の一月から二月にかけて、日本では全国的にまれにみる大雪となりました。本会の年中行事である「寒中読誦修行」(寒修行)の期間も雪が降って、道場に足を運べない方も数多くいたようです。そうしたなか、東京でも交通機関が停滞するほどの降雪でしたが、そのとき、大聖堂でこんな声を聞いた人がいます。
「人がせっかく寒修行をしているのに、どうしてこんなに雪が降るんだ!」。早朝に家を出て、自動車やバス、電車で参拝する人にとって雪は困りものですから、グチが出るのも当然かもしれません。
一方で、ある人はつぎのような声を耳にしています。
「雪のおかげで、ほんとうに寒修行らしい修行をさせていただけて、ありがたい!」
さて、みなさんは、どちらの見方をする人が、楽しく生きられると思いますか。私は、後者に軍配が上がると思います。けっして、むずかしいことをいっているわけではありません。ただ、天地自然の変化を素直に見て、それをありのまま受けとめているところがすばらしい。しかも、素直に受けとめているだけなのに、自分にもまわりの人にも、寒さや眠気を吹き飛ばすように感じさせるのはなぜなのでしょう。
それは、ものごとを「正見」で見るか、どうか、その違いだと思うのです。
(中略)
仏教で説く「八正道」の「正見」は、「正しい」という言葉の語感から、容易にはできないこと、悟った人だけが会得できることのように思いがちです。「正見でものごとを見る」というと、「それは無理だ」と即座に反応する人もいそうですが、先の雪の日の例のように、天地自然のはたらきを素直に見る──それが「正見」ではないでしょうか。
「正見」はまた、邪な見方や偏った見方、つまり自己中心の見方で見ると、不平や不満、あるいは怒りを覚えることも、大らかに受けとめることで、その結果、気持ちが楽になる見方ともいえます。仏知見とか諸法の実相を見極めるというと確かに難解ですが、雪の日の例のような見方(智慧)は、みなさんの日常でも、自然にはたらいているはずです。
寒中読誦修行中は、天候もそうですがさまざまな思いがけないことがでてくることがあります。出てくる天地自然のはたらきを素直に見られるように、「正見」を大事に取り組ませていただきましょう。
お早うございます。
コウチです。
正見とはで調いました。
ものごとの
し:枝葉、始末を、
ょ:よくよく観察し、
その現象の
う:受け取り方を
け:謙虚に、素直にすることが、
ん:運命を正しく運ぶ事と成り。
合掌。