寒修行もスタートしました。大寒のこの期間に、自分の土台をしっかりと作るために法華三部経読誦に取り組んでいきましょう。
以前、「怒り」について学びました。今回は、その時に紹介した『やくしん』に掲載されていた、阿部記代子北陸ブロック長、金沢教会長(現:札幌教会長)の「瞬時に湧く心を見逃さない」(やくしん2010.6)を紹介します。
○「今」と「心」が何より大切
「怒り」が湧いたとき、私たち信仰者、特に幹部会員は「怒りを持つなんてよくないこと」、ましてや「そんなマイナスの感情を言葉に出すなどとんでもない」と、そうした心を置き去りにして。または封じ込めてしまいがちです。喜びの体験は言葉にすることはできても、ふと湧いた怒りの心やすっきりしないモヤッとした気持ちを言葉に表すのは難しいのではないでしょうか。極端な言い方をすれば、私たちは「どうでもいいこと」「聞き心地のよいこと」は容易に言葉にすることができても、本音や「肝心なこと」はなかなか表現できないのです。
「法華経の新しい解釈」の中の「如来寿量品第十六」の解説中、開祖さまは、「法は内側にも外側にもあるもの」と教えてくださっています。救いは、私たちの外側だけにあるものでも、内側だけにあるものでもない。自分の心も身体も、法(仏)によって作られ、法(仏)によって動いているというのです。だとしたら、瞬時に湧く心は仏さまのはたらきであり、それが「怒り」だとしても、そこから目をそらさず、「大事にしていく」「救いにつなげていく」ことが大切です。せっかく仏さまが私たちに感じさせてくださっている思いなのですから、見逃したらもったいないのです。
それは何も怒りの感情を持ち続けるということではありません。自分の心を見つめてみると、「怒り」は「妄想(もうぞう)」です。「妄想」は心をむしばんでいきます。その結果、嫌わなくてよい人を嫌わなくてはならなくなってしまうのです。大事なことは、「怒り」をきっかけに、自分の心を深く掘り下げていくことです。「私はなぜ、あの人のひと言に腹が立ったのかな」。自分を責めるのではなく、怒りの大本は自分のどんな気持ちが動いたのかをとことん見つめる。私はそれが、会長先生のお示しくださった「心田を耕す」ことだと思います。
以前、阿部教会長さんにお越しいただき、大法座や幹部研修をしていただいたことがあります。その時にも、「自分のふと湧いた一念を見逃さない」とも教えていただきました。湧いてくる思いに気づかずに隠して表面でよいことを言っていても、阿部教会長さんから尋ねられていくうちに隠していた思いに気づき、話した方がどんどん変わっていく様子も見させていただきました。湧いてきた思いを通して、そのことに向き合い、自分の心を深く掘り下げていく中で仏さまのはたらきを感じていかれました。
光祥さまも「机の下に隠した思いを表に出す」ということを教えてくださいます。
今回は瞬時に湧く心から目をそらさず、「大事にしていく」ことを大切にしましょう。そして、それを幹部さんに確認してもらいましょう。
気づき、発見、疑問、感想等があれば、コメント入力してください。
次回までよろしくお願いします。
2023年・大聖堂から見える朝日
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