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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)147号~

今回も前回に続き、阿部記代子北陸ブロック長、金沢教会長(現:札幌教会長)の「瞬時に湧く心を見逃さない」(やくしん2010.6)を紹介します。


○「怒り」は封じ込めてもなくならない

こんな方がいました。相手の言うことや態度に疑問を持ったら、その思いを言い尽くさないと気がすまないというのです。その理由を「心に持っていたら自分の業(ごう)になるから」とおっしゃいました。私は「あなたの心はどう感じていたかしら」と尋ねました。「自分を認めてほしい」。彼女はその気持ちに行き着いたのです。

過去に言葉を尽くさなかったばかりに、悔しい思いをしたり、言葉で誤解された悲しい経験から発していることも一緒に確認できました。彼女自身は、伝えるのがとても苦手だと思い込んでいました。「大丈夫よ。あなたはとてもうまく話ができているし、誰も誤解したりしない。安心してくださいね」。私はそう言葉をかけました。

「心に持っていたら業になる」ということも、もちろんその通りかもしれません。しかし、本当の心ではありません。私たちはいつのまにか頭でものごとを解決していることが多いように思います。怒りの感情も、条件や相手のせいにしているうちは、頭で「怒り」を正当化しています。本当は、内にある大本を見つめていくことで初めて解放されるのではないでしょうか。

怒りを「封印しよう」「いけないこと」と決めつけて言葉をとめてしまうのは自分です。厳しい言い方をすれば、自分をかばっているということ。見栄や体裁なのです。幹部がそうした心で会員さんに接したら、会員さんも当然、本心を出すことはできません。私も、いつも自分に問いかけています。見栄や体裁、才覚でものごとを見ていないか、と。

有り難いと感じたことも、批判的な心が動いたことも、すべて仏さまが動いてくださったこと。「いま、実はこんなことを感じました」と、私自身も、そして会員の皆さんも、惜しみなく言葉に出していくこと、出せる環境であることが本当に大切だと思います。

心を言葉に出していく場、それが法座です。開祖さまは、法座について、『そこには、世間的なみえも、外聞(がいぶん)も、はばかりも、一切ありません。みんなが本当に素っ裸になれる、この世にただ一つの場であります』(庭野日敬法話選集第三巻248ページ)と教えてくださっています。

「こんなことは言えない」と、頭で考えたり、誰かの正直な発言を「あんなことを言って」と批判したりするのは、見栄や体裁、才覚がとれていない証拠。心に湧いたことは仏さまのはたらき。「怒り」の心を宝に変えられる、それが佼成会の教えであり、サンガの力ではないでしょうか。


寒修行も折り返し地点を過ぎようとしています。この期間は仏さまのはたらきがあちこちで動いているのではないでしょうか。「心に湧いたことも仏さまのはたらき」と教えていただきました。ぜひ、それを宝にできるように、サンガと共に確認していきましょう。

気づき、発見、疑問、感想等があれば、コメント入力してください。

次回までよろしくお願いします。



写真は福井教会内の敷地を壮年さんが除雪している姿です。

朝早くから除雪されている姿に感謝です。

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