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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)166号~

今回も前回の続きからです。特集「あるがままで本領を発揮する」(やくしん 2017.9)の中から、本領を発揮し、生きがいのある人生を送るためには、いまを大切にすることだと、仏教的視点から、過去・未来にとらわれず、いまを大切にする術を、スマナサーラ長老(スリランカ上座仏教・テーラワーダ仏教)が教えてくださっています。今回が最後です。


○過去がすべて詰まっている“いま”

瞬間的に脳が反応し、私たちの体は動いています。いま、みなさんはこの文章を読んでいますね。文字を理解し、意味を調べ、文章の内容を理解してと、意識しながら読んでいますか?わざわざ字を読むという意識がなくても、大抵の人は自然と読めていると思います。それは、過去の経験や知識が私たちの体に蓄積されているから、苦もなく自然と読めているわけです。人間は、過去の経験、知識に基づいて考え、行動し、喜んだり、悲しんだり、怒ったりします。ですから、同じ出来事を体験しても経験の違いによって、私とあなたとでは異なる反応をするのです。

つまり、「私」という存在は、経験という、さまざまな出来事や人やものとの出合いによって成り立っているのであって、確固たる「私」は無いに等しい。

私たちは、あらゆる経験、縁によって変わっていきます。いつも同じ「私」は存在しません。職場での「私」、 家に居るときの「私」、夫といるときの「私」、妻といるときの「私」、友達といるときの「私」・・・・・。 常にその瞬間によって異なる「私」なのです。

私がいないと思えれば、未来がこうでなければならない、過去のあれがなければと、思い悩むことはありません。これまで訓練し、経験したものは、この瞬間に、必要に応じて出てきます。

ここで私が伝えたいのは、頑張っても頑張らなくても、いまがすべてで、生きている“いま”が大切だということです。いろいろとお伝えしましたが、これだけ覚えておいてください。けっして難しい考え方ではありません。命あるものは、必ずいつか死ぬ。その「いつか」は誰にもわかりません。どんなに頑張って考えても、先々のことは分かりませんから、与えられた目の前の“いま”に集中して、取り組むほかはないのです。

この考え方は、お釈迦さまが悟られたことですから、いたってシンプルです。これができれば人格完成。しかし、凡夫の私たち人間にとっては、分かっていても難しいこと。ですから、私たちは絶え間なく努力して、過去や未来にとらわれることなく“いま”を見つめ続けるしかないのです。


命あるものは、必ずいつか死を迎えます。私たちも必ずいつか死を迎えます。その「いつか」は誰にもわかりません。たとえ、病院で余命宣告を受けたとしても、それよりも早く死を迎える方もいれば、長く生きる方もいます。そのように思うと、どんなに頑張って考えても、先々のことは分かりません。確実なのは、いま、ここに、私が生きているということです。与えられた目の前の“いま”に集中して、取り組むほかはないのです。

G・Wが終わりますが、あらためて日常生活の“いま”に集中して、目の前の人に喜んでもらえるように、なすべきこと一つ一つを丁寧に取り組んでいきましょう。次回までよろしくお願いします。




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