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  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)182号~

夏休みが始まり、お子さんとお家で過ごすことが多くなった親御さんや祖父母の方々も多くいて、教会や別居道場にはなかなか参拝できないという方もいらっしゃると思います。

そこで今回からは、「道場観」「即是道場」について学んでいきたいと思います。特集「このとき、この場が私の道場」(やくしん1999年7月)から学んでいきましょう。


○道場は幸せの発信地

開祖さまは、道を修め、道を行なう気持ちでいれば、いたる所が道場であり、そこは世界の中心であると、次のようにご法話(『佼成』昭和53年7月号)くださっています。

「われわれ法華経の行者が、ただひとりででも、またグループを組んででも、道を求め、利他を行じているならば、そこが世界の中心なのです。地上の核心なのです。地球はそこを中心として回り、世界はそこから光明化され、平和化されていくのです」

道を求める気持ちから発せられる行動は、自然と周囲の人に影響を与えます。つまり、 道を求める一人ひとりの生活の場は、周囲に明るさや喜びを伝える幸せの発信源になります。

たとえば、混み合った朝の通勤電車の中。もし隣の人が足を踏んだとして、わざとではないはずです。それを怒鳴りつけてしまえば、踏んだ人も踏まれた人も、その日一日イライラして、仕事でミスをしたり、新たな争いを生むことにもなりかねません。

しかし、「ここが道場」という気持ちがあればそうはならないはずです。「混んでいるのだから、お互いさまですよ」と、逆に相手をかばい、励ますような言葉かけさえできるでしょう。踏んでしまった人だって、失敗したつもりが、その日一日を清々(すがすが)しい気持ちで過ごすことができ、その姿がまた周囲の人に影響をおよばしていくはずです。

心の持ち方ひとつで、縁を清々しい出会いにすることもできれば、心すさむものにしてしまうことにもなります。心の底では相手と清々しい縁を結びたいと願っている私たちです。そのことを忘れずに日々を過ごしていきましょう。

人と出会えば笑顔であいさつを交わし、道を渡るときでも、止まってくれた車に会釈をする。ほんの小さなふれあいでも、ふれあう人々に幸せの輪を広げている瞬間が、世界の中心であり、幸せの発信地である「道場」となるのです。


先日、家庭教育で「祖父母の在り方」と題して、夏休みを迎えお孫さんを預かる機会が増える祖父母の皆さんへの学びがありました。それに参加された方から、とても素晴らしい実践の報告を伺いました。子育ての主は親であり、祖父母はあくまでも協力者であることを頭におき、孫とどのようにふれあえば子どもが喜ぶかを考え、宿題の時間、お手伝いの時間、ゲームの時間と孫に自分で計画を立てるように促したそうです。そしてできたことを褒め、取り組んでいる様子を写真に撮って子どもに送信しました。共働きである子ども夫婦は、料理を教えることがなかなかできずにいたので、包丁で野菜を切ったり、サラダを混ぜたりする姿を見てとても喜んでくれたそうです。その話を伺い、これが「即是道場」の実践だと感動しました。

今回は、自分のいる場所で相手と清々しい縁を結んでいけるように、自分のできることに取り組んでいきましょう。

次回までよろしくお願いします。




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