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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)184号~

今回は特集「このとき、この場が私の道場」(やくしん1999年7月)の中から、臨済宗禅僧、藤原東演(ふじわらとうえん)さんの記事を紹介します。そこから「道場観」「即是道場」について学んでいきたいと思います。とてもわかりやすいです。

私が僧堂(そうどう)で修行をはじめたばかりのときです。

僧堂での一日の生活は、朝から晩までやることが決められていて、普通の生活と比べると、不自由極まりません。僧になる志も確立せず道場に入った私は、早くここを出て自由になりたいと、そのことばかりを考えていました。

ある日、私はお寺の庭の草むしりをしていました。庭は広く、草はいくら取っても取りきれないほど生えています。

《つまらんなあ。こんなことをしていて何になるんだろうか》

草をむしりながら、心は不満でいっぱいでした。そんな私の横に、先輩のお坊さんが来て、こう言ったのです。

「おまえは大地を両足で歩いたことがあるのか」

何のことやらさっぱり分からず、きょとんとしている私を置いて、先輩は立ち去ってしまいました。

修行を続けてさらに三か月くらいたったころでしょうか。そのときの言葉の意味が、ようやく分かったのです。

坐禅(ざぜん)を組んでいても、お経をあげていても、食事の支度(したく)や掃除、草むしり…何をしていても、私は《早く終らせたい、やり過ごしたい》と、常に他のことばかり考えていました。これでは、体はそこにあっても、「心ここに在らず」です。そこに存在しないのと同じこと、つまり、幽霊(ゆうれい)です。

幽霊には足がありません。だから、「大地を両足で歩いたことがあるのか」― それは、「おまえの心は、いまどこにあるのか。それでよいのか」と、私の修行姿勢、生きる姿勢に対し、疑問を投げかけてくれた言葉だったのです。

この続きは次回に紹介します。

「即是道場」とは、自分が居る所、住んでいる所、身を置く所、すべてが道場であるということです。

そのように、「自分の居る場所がすべて道場である」と受け止めて、自分自身で取り組んでいくことの大切さを教えていただいています。言い換えれば、「自分の人生の主人公は自分自身」であり、「主体的に生きる」ということです。

しかし、取り組んでいる自分が常に他のことを考え、「心ここに在らず」では、得るものも少ないように思います。心を込めて、少しでも主体的に取り組んでいくことが大切です。

今回は、自分のいる場所で「よいことを、真心込めて、くり返し」取り組んでいきましょう。皆さんは、どのようなことに取り組んでいきますか。

次回までよろしくお願いします。



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