後藤教会長2023年8月12日読了時間: 2分~教会長のいい福通心(つうしん)185号~今回も、臨済宗禅僧、藤原東演さんの『やくしん』(1999.7)記事から、「道場観」「即是道場」について学んでいきたいと思います。「随所(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立処皆真(りっしょみなしん)なり」の言葉は、どんなときでも、どんな状況にあっても、その場で主体的に生きることの大切さを教えてくださっています。これは、つまり、いま、自分がなさねばならないことに集中し、心を尽くして我(われ)を忘れるということです。そのとき、その場と一体になるということです。私たちの日常生活はどうでしょうか。ここに居ても、心ここに在らず。そんな“幽霊状態”のときが、あまりにも多いように思います。一服のお茶をいただくときも、考え事をしていたのでは、お茶の味は分かりません。お茶をいただくときは、考え事があろうとも、頂戴したひとときを感謝していただく。「ああ、おいしいなあー」と味わう。お茶と一体になる。そうした状態になってこそ、一服のお茶をいただくその時間が、生き生きと、価値あるものになるのではないでしょうか。※「随所(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立処皆真(りっしょみなしん)なり」—どこにいても自分が主人公であれば、自分の立っているところすべてが真実である。―『臨済録(りんざいろく)』に記されている言葉お盆休みを家族で過ごしている方も多いのではないでしょうか。私も家族と過ごす時間をいただき、子どもたちとともに両家の両親のところに行く予定です。久しぶりに両親や家族と会っているのに、他のことを考えその時間を大切にできていなければ、心ここに在らずの“幽霊状態”です。今、この場、目の前の人を大切に、目配り、気配り、心配りを実践していきたいと思います。今回は、自分のいる場所で、目の前の人に喜んでもらえることに取り組んでいきましょう。次回までよろしくお願いします。
今回も、臨済宗禅僧、藤原東演さんの『やくしん』(1999.7)記事から、「道場観」「即是道場」について学んでいきたいと思います。「随所(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立処皆真(りっしょみなしん)なり」の言葉は、どんなときでも、どんな状況にあっても、その場で主体的に生きることの大切さを教えてくださっています。これは、つまり、いま、自分がなさねばならないことに集中し、心を尽くして我(われ)を忘れるということです。そのとき、その場と一体になるということです。私たちの日常生活はどうでしょうか。ここに居ても、心ここに在らず。そんな“幽霊状態”のときが、あまりにも多いように思います。一服のお茶をいただくときも、考え事をしていたのでは、お茶の味は分かりません。お茶をいただくときは、考え事があろうとも、頂戴したひとときを感謝していただく。「ああ、おいしいなあー」と味わう。お茶と一体になる。そうした状態になってこそ、一服のお茶をいただくその時間が、生き生きと、価値あるものになるのではないでしょうか。※「随所(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立処皆真(りっしょみなしん)なり」—どこにいても自分が主人公であれば、自分の立っているところすべてが真実である。―『臨済録(りんざいろく)』に記されている言葉お盆休みを家族で過ごしている方も多いのではないでしょうか。私も家族と過ごす時間をいただき、子どもたちとともに両家の両親のところに行く予定です。久しぶりに両親や家族と会っているのに、他のことを考えその時間を大切にできていなければ、心ここに在らずの“幽霊状態”です。今、この場、目の前の人を大切に、目配り、気配り、心配りを実践していきたいと思います。今回は、自分のいる場所で、目の前の人に喜んでもらえることに取り組んでいきましょう。次回までよろしくお願いします。
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