「会員綱領」の内容について学んでいます。今回も「仏教の本質的な救われ方を認識し」の部分です。
「やくしん(2019年6月~8月号)の特集、「私の『会員綱領』」から引用しています
○私に気づきを与えてくれるもの
私たちの「本質的な救われ」に相対するものはなんでしょう。それは、人生のうえでままならない時に感じる「苦しみ」ということになるでしょうか。
会長先生は「苦」があっても「苦しまない」生き方について次のように教えてくださっています。
「苦はどれも、『自分にはどうすることもできないこと』を示しています。(中略)直面した『苦』を『苦しみ』へと同調させるのではなくて、『苦』との出会いは『智慧』に目ざめるチャンスでもあると気づくことです。苦しみや悲しみ、怒りやつらさにもつながる『苦』も、そこに感情をまじえなければ『無記(むき)』、つまり善でも悪でもないのですから、それをどのように受けとめ、制御するかで、その後の人生に大きな違いが生まれてきます。(中略)『苦』から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その『苦』は『智慧』の湧き出る泉ともなります。私たちが本来もっている『智慧』がはたらきだすには『苦』が必要だったと受けとれば『苦』は楽しみに向かう大切な道しるべとなり、その『苦』も抜き去られるのです」(『佼成』2019年5月号)
信仰をしていても、目の前の問題がすべて解決するわけではありません。しかし、信仰をもち、ものの見方、考え方を変えることができれば、困難な状況は変わらなくても、心に大きな安心をいただけます。
智慧によって目の前の「どうにもならないこと」が“つらいもの”から“私に気づきを与えてくれるもの”へと変化する。さらに、自分がいただいた気づきを、今度は周りの人にふり向けていく―。ここまで心が動いていけたなら、信仰によって得られる「本質的な救われ」を私たちは共に味わえるのではないでしょうか。
「苦」とは「自分にはどうすることもできないこと」であり、「苦しみ」は「苦」から生まれる感情的な苦悩です。人生の中では生老病死など、自分ではどうしようもできないこと(苦)が起こってきます。それをどうにかしようと必死に取り組み、思い通りにならないことにとらわれて悲しみや怒り、苦しみにしてしまうのですね。
「苦」から逃げずに受け入れ、そこから学ぼうとすると、その「苦」が大事な気づきを与えてくれるものになります。
そのような「本質的な救われ」をもう一度振り返り、自分自身がいただいた気づきを味わっていきましょう。
次回までよろしくお願いいたします。
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