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  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)216号~

本部をはじめ、福井教会、別居支部でも寒中法華三部経読誦修行を行っていますが、後半に入りました。『佼成』(1977年10月)開祖さまご法話「法華経をどう読むべきか 五種法師について」を、前回の続きから学びたいと思います。


○受持は素直な心から生まれる

では、受持とは何か。大智度論に「信力の故に受け、念力の故に持す。文を看るを読と為し、忘れざるを誦と為し、宣伝を説と為す。聖人の経書の解し難きはすべからく解釈すべし。六種法師なり」と六つに分けて解説してあります。受というのは、教えを深く心に信ずることです。持というのは、その信を固く持ちつづけることです。

この受と持は、他から強制することもできませんし、みずからの意志力のみで造り上げることもできないものです。「信ぜよ」といくら人に言われても、「信じつづけよ」といくら自分自身に言い聞かせても、信じられないものは信じられないのですし、退転しようとする信を食い止めることもできないのです。信というのは、素直な心に自然発生するか、あるいは読・誦・解説・書写という助行によって、しだいしだいに醸成され、かつ持たれていくものです。

むかし、ラビ・アキバというユダヤ教の篤信者がありました。故郷では他の宗教が行われていたために迫害を受け、やむなくさすらいの旅に出ました。持ち物としては、夜、法典を読むためのランプと、寝ずの番をしてくれる雄鶏と、旅するためのロバ一匹だけでした。

ある晩のこと、ゆくてに点々とした燈火を発見したアキバは、一夜の宿をと思ってたどりついてみると、村中がみんな不親切で、だれひとり泊めてくれる者はありません。仕方なく近くの森で野宿しながら、「つらいなあ」と、一時は思いました。

しかし、すぐに「これも神さまの思召だろう。神さまはけっして悪いようにはなさらないのだから‥‥」と思い直しました。そして、ランプをともして法典を読もうとしました。するとたちまち突風が吹いてきて燈が消えました。「これはどうしたことか。神さまはわしに勉強もさせて下さらないのか」と、瞬間にはそう思いましたが、「いや、いや、神さまは正しい。神さまはいつでもいいようにして下さるのだ」と思い返し、土の上に横になりました。

いつしかトロトロと眠っていると、雄鶏のけたたましい叫び声で目が覚めました。オオカミがやってきて、くわえて行ってしまったのです。

「ああ、わしの寝ずの番もいなくなった。しかし、神さまはいつでも正しい。悪いようにはなさらぬのだ」

と、かれの信はゆらぎませんでした。そうしているところへ、今度はライオンが襲ってきて、頼みのロバを噛み殺してしまいました。さすがのアキバも落胆しましたが、すぐに考え直しました。「神さまは正しい。神さまはいちばんいいことをなさるのだ」と。

夜が明けてから、アキバは旅をするためのロバか馬を求めようと、もう一度、昨夜の村に行ってみて驚きました。村中は死体だらけで、だれひとり生きていず、家財道具も何もありませんでした。凶悪な盗賊どもに襲われたのでした。あまりの出来事に呆然としていたかれは、やがて手を合せて神さまに申し上げました。

「わたくしども人間は、先の見えない盲人でございます。神さまは盲目のわたくしどもの手を引いて下さるのです。もし、昨夜村人たちがわたくしを泊めてくれましたら、今こうして生きてはおれないでしょう。また、もしランプが消えなかったら、盗賊どもはそれを目当てに襲ってきたに違いありません。雄鶏とロバがわたくしの傍にいましたら、盗賊どもの気配に騒ぎ立て、それを聞きつけられてただではすまなかったでしょう。ああ、神さまは偉大です」と。

この説話は、いわばユダヤ教の妙好人話でしょうけれども、仏教の妙好人とすこしも違うところはありません。古今東西変わりなく、素直な心が信の因となることが、この説話をつうじてもよく分かります。

法華経の分別功徳品と随喜功徳品で、「初随喜」の功徳がくわしく説いてありますが、仏典を読んだり、説話を聞いたりして、「ああ有り難い」と感動するのは、心が素直であればこそであります。ですから、「信力の故に受け」の信力とは、素直な心のことであると、わたしは解釈したいのです。

それでは、つぎの持はどうして生ずるか。大智度論には「念力の故に持す」とあります。この念力とは、たんに顕在意識の上に念じつづけるだけで生まれるものではありません。読・誦・解説・書写という助行を怠らずつづけていかなければ潜在意識に蓄積される陀羅尼力の助けが得られません。また、そのような念力も生じないのであります。そこで、つぎに、これらの助行について説明しましょう。

 

受持は素直な心から生まれるとあります。本会では、この「素直」な心をとても大切に教えていただきました。何か言われても「拝(はい)」と素直に受けることを、先輩方から教えていただきました。しかし、なかなかその「素直」になることが難しく、「だって」「でも」「そんなこと言ったって」などと反発していました。そんな時に決まって言われることは、「ご供養をまずあげなさい」でした。今回のご法話を通して、なかなか受持までいかない「素直」でない私に、経典の読誦を勧めて、受持できるような素直な心を起こさしてあげたいという心だったのだと思います。

寒修行中だからこそ、言われたこと、教えていただいたことを「素直」に受け止めていきましょう。次回までよろしくお願いします。




写真はベンチに溶けかかった小さいペアの雪だるまです。

とてもかわいい姿に思わず撮ってしまいました。

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