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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)217号~

本部、そして福井教会、別居支部の寒中法華三部経読誦修行も無事終わりました。この期間に法華三部経を、久しぶりに読誦したという方もおられたと思います。『佼成』(1977年10月)開祖さまご法話「法華経をどう読むべきか 五種法師について」を、前回の続きから学びたいと思います。今回が最後です。


○繰り返しからだで読むこと

読(どく)とは黙読することです。誦(じゅ)とは声を出して読むことをもいいますが、仏典の場合「誦(そら)んじて忘れない」ことのほうを本意としています。ですから、経典の読誦には繰り返しがぜったいに必要なのです。繰り返し繰り返してこそ、経意はその人の潜在意識の中に蓄積され、強い念力となって神仏のみ心と相通うようになるのです。

江戸時代の盲目の大学者塙保己一(はなわ・ほきいち)は、鍼の先生の雨富検校から「一生をかけたほんとうの大事業を為すには神仏のご加護がなくては不可能である」と教えられ、二十七歳のとき般若心経の「百万読誦」の誓願を立てました。そして毎日、般若心経を百回ずつ読誦したのです。七十六歳で没するまで四十三年間一日も怠らず、ついに百九十八万九千六百回般若心経を読んだのです。その一念が仏につうじたものと見え、周知のとおり、ついに『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』という一千五百巻余りに及ぶ不滅の大著述をなしとげたのでありました。天才といわれた塙保己一でさえ、これほどの努力をして読誦を繰り返したのです。ましてや凡解のわたしどもが、一回や二回、法華経を読んだだけで、「解った」などとすました顔をしておられましょうか。

日蓮聖人は「法華経は色読(しきどく)せよ」とおおせられています。色読するとは、からだで読むということです。からだで読む‥‥と聞いても、何のことか分からぬ人があるかもしれません。そんな人は、法華経を読んで感動したところがあったら、それを他の人に伝えてみるといいのです。人に伝えるという積極的な行為をすれば、ただ受動的に読んだときと違って、その教えがひじょうにクッキリと自分の胸に刻み込まれるはずです。また、法華経を知らない人にその内容を伝えるためには、どうしても文意をよく噛みくだき、分かりやすく説く必要があります。このような説き方を解説(げせつ)というのですが、この解説という働きをすれば、教えはますます真底から分かってき、身にしみこんでくるはずです。こういうことを、「からだで読む」というのです。

書写というのも、「からだで読む」ことの重要な一つの方法です。静かに坐して、経典の一字一字を心をこめて書写しますと、不思議と、教えそのものが魂の奥へまでしみ込んでくる実感を覚えます。わたしも一夏かかって法華三部経を書写し、それは大聖堂のご本尊の胎内にお納めしてありますが、みなさんも何とか工夫して時間を作り、一生に一度はこの修行をしてみられたら如何ですか。ただ目で読んだだけでは得られぬ深いものが味わえること、万々間違いありません。

ともあれ、秋は内なる世界へ回帰する絶好の季節です。どうか、何よりもまず「五種法師」に励んでいただきたいものと、心から願われてなりません。


この機会にぜひ、法華三部経を身近に感じ、「五種法師」を通して教えの有り難さを味わいかみ締めていきましょう。次回までよろしくお願いします。





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