top of page
  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)224号~

何回かに分けて常不軽菩薩のことや仏性礼拝について学んでいます。今回は、『致知』2016年9月号 特集「恩を知り恩に報いる」から一部抜粋・編集したものを紹介します。

余命10日の18歳の卯一という少年

これはもう60年以上も前の話ですが、ある夜、お隣の佐藤さんが一燈園の三上和志先生という立派な方が来られるというので、子供を連れて行ったことがあります。

三上先生は警察関係の病院に招かれて入院中の人々や職員に話をされました。院長室に戻ると、院長がお礼を述べた後に、「実は、余命10日の18歳の卯一という少年がいます。不幸な環境で育ったこともあり、暴言を吐き、皆に嫌われています。しかも開放性の結核なので、一人隔離されて病室にいるのですが、せめて先ほどのようなお話を10分でも20分でもしてやってもらえませんか」とお願いされました。2人は少年の部屋に入ります。院長はマスクにガウンの完全防御、三上先生は粗末な作務衣のままです。卯一は、院長が「気分はどうか」と声を掛けても「うるせえ」と地の底からの声を出し相手にしようとしません。二人が諦めて部屋を出ようとした時、卯一と三上先生の目が合うんですね。その目は、燃えるような人恋しい、孤独のどん底にいる目でした。先生は病気が感染することを覚悟で、卯一を一晩看病させてほしいと頼みます。三上先生は荒れ狂っていた卯一をなだめながら、骨と皮ばかりになった足をさすり始めました。やがて卯一は自分が生まれる前に父親が逃げたこと、母親は産後すぐに亡くなったこと、神社で寝ては賽銭を盗んで食い稼ぐ生活を続けてきたことなどを話し始めるんです。そして、一晩中足をさすり続ける先生に「おっさんの手、お母さんみたいやな」と言うんですね。

そのうちに粥を食わせてくれるよう頼みます。生ぬるいお粥さんが梅干しと一緒に置かれている。幾匙か口にした後、卯一は言うんです。「もうええ。おっさんもお腹空いたやろ。俺の残り食うてくれ」と。しかし、結核患者が口にしたものです。先生は「一晩くらい食べなくてもいい」「そんな言わんと食うてくれ」「いい、いい」「おっさん、食えや」「私はお腹が空いていない」……次第に卯一の声の調子が変わっていくんですね。「親切そうにしているけど、おまえの真心はほんまか」と。先生は長い長い合掌をして、粥をいただかれるんです。「我が子であればと思おうとするけど思えない」と先生は講演でおっしゃっていました。卯一が「長いこと拝むんやな、おっさん」と言ったと聞いて、私はゾクッとしました。私もその場にいれば同じだったはずですから。粥を食べた先生に卯一は「おっさん、笑わへんか」と聞きます。「なんや、言うてみい」「いや、笑うやろ」「笑わへん」「それなら言うぞ。一回でいい。おっとうと呼ばせてくれ」一回は小さい声で「おっとう」、2回目には少し大きな声で、3回目にはありったけの声で「おっとーう!」と叫んで、声を上げて泣き崩れたそうです。

先生も一緒に泣かれて「人間は何でこの世に生まれてくるか知っているか。人に喜んでもらうために生まれてくるんやよ」と諭されるんですね。そうしたら卯一が「おっさん、俺の話も聞いてくれ。おっさんあっちこっちに講演に行くやろ?親を大事に思わん者が哀れな最期を遂げた、と俺の話をしてほしい」と頼みます。二人はそこで別れるのですが、卯一は「おっさーん」「おっさーん」といつまでも呼び続け、その直後にお浄土に帰っていくんですね。顔には静かに笑みを浮かべ、手は合掌していたといいます。

この記事を読んだ時に、大変感動しました。一燈園の三上和志先生は、まさしく常不軽菩薩であり、これが仏性礼拝だと感じました。目の前の人を拝み続ける三上先生の姿。その中で、相手の卯一という青年が仏性を開いていく姿に、私の中で何かわからないのですが、「よし、やろう!」という気持ちが湧いてきます。皆さんはどのように感じましたか。

次回までよろしくお願いします。




閲覧数:363回0件のコメント

最新記事

すべて表示
記事: Blog2_Post
bottom of page