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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)232号~

何回かに分けて常不軽菩薩のことや仏性礼拝について学んでいます。今回は、幹部向け冊子『ほっしん』に掲載された、東京教区長(当時)松原利予さんの「仏性礼拝行は修行の本道」から学んでみましょう。


「仏性礼拝行は修行の本道」東京教区長 松原利予


〇誰にでも簡単にできる行法

私が人さまにふれさせて頂くとき、肝に銘じている言葉は、開祖さまの次のご指導なのです。


仏の教えの哲理を煮つめ煮つめたギリギリのエキスは何でしょうか。〈一切衆生 悉有仏性という真実がそれです。

その真実を日常の生活に実践するのに、だれにもかんたんにできる行法とはどんなものでしょうか。〈自分の仏性をみつめ、人の仏性を拝むこと〉がそれです。

自分の仏性をみつめることを怠らなければ、たとえ煩悩はそのまま放置しておいても、煩脳そのものがひとりでに善のエネルギーへ変わってしまうのです。(『新釈法華三部経』八巻十二ページ)


さらに、開祖さまは人にたいしても同じことが言えるとおっしゃられ、もし他の人が自分の表面の悪はさておいて、自分の本性の善を指摘してくれたなら、それが仏性の目覚めの糸口になる、とご指導くださっています。

つい先日、法座に七十歳を過ぎたおばあちゃんが来ました。今年、金婚式を迎えたおばあちゃんは、おじいちゃんが口やかましいということもあり、結婚以来、口喧嘩が絶えないというのです。

今朝も大喧嘩をし、おじいちゃんが家を出て、息子のところに行ってしまったとのことでした。

そして今まで『ご主人に優しくないからよ』と、何回となくご指導を頂いてきても、それができずにきたおばあちゃんの辛い心を聞かせて頂き、私は自然と涙が溢れました。

と同時に、口喧嘩ばかりしてきたといっても、夫婦が力を合わせて戦前、戦中、戦後といった激動の時代を生き抜き、子供を立派に育て上げたおばあちゃん夫婦に、心から頭が下がりました。

(おばあちゃんは今もおじいちゃんを愛しているに違いない。その、人を愛するという素晴らしい心=仏性にまず気づいて頂こう)

そこで私は、「おばあちゃんとおじいちゃんお二人とも元気でよかったわね。元気だから喧嘩もできるのよね。それに、おじいちゃんの愚痴やわがままなど、好きなことを五十年にわたって言わせてきたおばあちゃんは善い人ですね」

初めて自分が善い人だといわれたおばあちゃんは、びっくり。おじいちゃんとの楽しい思い出話をして、喜んで帰っていかれました。

するとどうでしょう?おばあちゃんは自分がほめられたので、嬉しくて嬉しくて、その日から早速、お導きに歩かれたのです。そして翌日には、おじいちゃんが帰ってくるというお手配も頂き、今では夫婦そろって布教に歩かれているのです。

私がこのおばあちゃんとのふれあいから学ばせていただいたことは、次のような事です。

「おばあちゃんが優しくなれば、おじいちゃんは変わるのよ」という結びは、確かに真理です。

しかし、その前におばあちゃんという縁にふれた私自身が、「優しくなろうと努力をしても、それがままならない」おばあちゃんの心境を組んであげられる『優しさの実践者』になっていかなければならないと思うのです。

その上で、相手の持つ仏性を見つけ出し、そこに光を当ててあげれば、必ず相手の心に喜びが満ち溢れてくることは間違いありません。

そして、その喜びこそが、人さまに法を伝えるエネルギーとなり、同時に人を引きつける魅力になっていくのではないでしょうか。

ここで一言ふれておきたいことは、仏性礼拝行だからといって、相手の短所を見ないということではありません。私たちリーダーは、相手のいいところも短所も、両方見極めていくということも大切です。そして、ときには改めて頂くことも必要になってくることでしょう。


【わたしの所感】

私も松原講師さんから法座や研修を頂き、たくさんの感動を頂きました。福井教会でも松原講師さんのご縁を頂いた方も多いと思います。

真理でものごとを見ていくことは大事なことですが、その前に相手にふれた自分自身が、相手の心境を組んであげられる『優しさの実践者』として、相手にふれていくことが大事なのですね。それが、ふれる相手と一体になっていく一歩なのだと感じます。

次回までよろしくお願いします。




写真は法輪閣の2階から見た法輪閣庭園です。

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