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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)246号~

佼成新聞に連載されていた開祖さまの、『心が変われば世界が変わる-一念三千の現代的展開-』を紹介しています。今回も、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。


○利害や欲望を離れた世界へ

「しばらく避難すること」

逃避すると言えば、何か卑怯なことのように考えられるかもしれませんが、身辺に殺到するストレスから一時的に逃れるのは、心の調和をはかる自然の智慧であって、けっして恥ずべきことではありません。

第二次世界大戦当時、アメリカ大統領だったハリー・トルーマンは、次々に押し寄せる難問題と激務の中で、素晴しく冷静で、しかもつねに健康を保っていました。ある人がその秘訣を尋ねたところ、「わたしは心の中にフォックス・ホールをもっていて、時々その中に入るからです」と答えたそうです。フォックス・ホール(狐穴)というのは、日本軍隊ではタコツボと呼んでいましたが、兵士が一人入るぐらいの簡単な塹壕で激しい砲弾を浴びせられた時、そこに身を潜め、危険を避けると同時に、ひとときの休息をとるためのものです。トルーマン大統領は、自分の心の中にこのフォックス・ホールをもっていて、ときどきその中に入って気にかかることをきれいサッパリ忘れることにしているのだ……というわけでした。

ストレスからの一時的逃避には、いろいろな方法があります。音楽を聞く、スポーツをやる、散歩をする、それぞれいいことです。静かに座って瞑想する……となりますと、たんなる逃避以上のはたらきをもつ尊いことです。トルーマン大統領のフォックス・ホールは、おそらくこの瞑想だったのではないかと思われます。

信仰はもちろん、ほんとうの意味はもっと奥深いものでありますが、心を静め、神経の緊迫を和らげる効果も非常に大きなものがあります。

朝夕ご宝前に正座して礼拝し、読経し、題目を唱える。道場に来て、法の話を聞き、同信の仲間と研さんし合う。すべて、利害と欲望の渦巻く俗世界から離れて静かな魂の憩いの世界に入ることであり、精神衛生上こんないいことはないのです。

よく世間には「宗教は生活からの逃避である。弱い者のやることである」と勇ましい論を吐く人もありますが、そんな人でも、思索に行きづまったらタバコを吸いましょうし、夜は一杯飲みにも出かけるでしょう。それが逃避でなくて何でありましょうか。

もし実生活から絶対に逃避しない人があったとしたら、必ず気狂いになるか、病気を起こして早死にするでしょう。百歩を譲って、かりに宗教が逃避だったとしても、酒や、女(異性)や、ギャンブルなどに逃避するよりは、はるかにすぐれた、有意義な逃避ではないでしょうか。

ハーバード大学哲学教授だったウイリアム・ジェームスはこう言っています。

「言うまでもなく、煩悶(はんもん)に対する第一の治療は宗教的信仰である」と。


【わたしの所感】

私にとっての避難場所は、何か所かあります。実際の場所だけでなく、人や書物、考え方などです。教会や支部、サンガが心の避難場所でもあります。皆さんにとって、一時でも心の避難場所になれたらと思います。次回までよろしくお願いします。



写真は、養浩館庭園です。この庭園は江戸時代につくられた庭園で、 かつては福井藩主松平家の別邸でした。

養浩館で福井佼成幼稚園の敬老会のお茶会がありました。園児が茶道で祖父母をおもてなししました。

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