佼成新聞に連載されていた開祖さまの、『心が変われば世界が変わる-一念三千の現代的展開-』を紹介しています。今回も、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
○“独善”を慎み仲間と努力を
人が自分と違うからといって、怒ってはいけない。人間にはそれぞれ執着している見解があるものだ。自分がよいと思うことを、人はよくないと思うことがある。人がよくないと思うことを、自分はよいと思うこともある。自分はかならずしも聖者ではなく、相手はかならずしも愚者ではない。どちらも凡夫なのだ。凡夫である限り、こちらが是で向こうが非だとハッキリ決められるものではない。本当の是非は、絶対の真理のみが知っているのだ。凡夫である限り、ある時はこちらが賢く、ある時は向こうが賢く、転転として定まりのないことは、丸い鐶(かん)に端のないのと同様である。だから、一方的に怒ってはならない。また、相手が怒ったら、すぐそれに怒りをもって対抗することなく、怒った原因がどこにあるかを静かに考え、それを参考にして自分があやまちを犯すことのないように、恐れ慎むことが大切である。
また、自分だけが正しい道を悟り得ているように思われることがあっても、決して独善的になることなく、世の多くの人たちを、共に迷い苦しみながら道を求める同行の仲間と観、自分もその人たちと一体の凡夫であると悟り、多くの人たちと同列になって、悩み苦しみつつ努力することである・・・・・・このような教えです。
これは、怒りを和らげ消滅する教えとして尊いばかりでなく、真の民主主義(仏教的民主主義)の道を指し示す素晴らしい教えだと信じます。
【わたしの所感】
今回は、前回の聖徳太子の十七条憲法の第十の部分・・・・・・
「十に曰く、心の怒りを絶ち、おもての怒りを棄て、人のたがうを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執ることあり。かれ是(よみ)すれば、すなわちわれ非なリ。われ是すれば、すなわちかれ非なり。われかならずしも聖に非ず。かれかならずしも愚にあらず。共にこれただひとのみ。是非の理(ことわり)、いずれか定むべき。相ともに賢愚なり。鐸(みみがね)の端(はし)なきが如し。これをもって、かの人はおもて怒るといえども、かえってわがあやまちを恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従って同じくおこなえ」
の現代語訳でした。
この内容を読み、自分自身を振り返ると当てはまるところが多く、恥ずかしい思いです。時々、私は正しい、私は間違っていないと思ってしまうことがあります。そのように思っている時は、相手が間違っている、相手がおかしいと見ているのです。そのことによって、相手に対してわからせよう、なおしてやろうと、相手を変えようとする心が出てくるのです。しかし、私も相手も共に凡夫であるという気持ちであれば、すぐに怒りによって行動するのではなく、自分はどうだったかと反省し、相手を受け入れ、許すことができるのだと思います。自分も相手も凡夫。未完成同士ですね。
次回までよろしくお願いいたします。

写真は石川県立図書館です。とてもオシャレで、何時迄も居たい図書館でした。
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