~教会長のいい福通心(つうしん)259号~
- 後藤教会長
- 6月5日
- 読了時間: 3分
更新日:6月27日
佼成新聞に連載されていた開祖さまの、『心が変われば世界が変わる-一念三千の現代的展開-』を紹介しています。前回からだいぶ時間が経ってしまいましたが、今回も皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
<11>楽しく人生を送るために
○人間の値打ちに差はない
「自分を<役立てる>こと」
現在のような競争の激しい社会においては、自分が取り残されているような、落ちこぼれているような感じを心の底に抱く人がたくさんあります。そういう劣等感は、働く意欲を減退させ、生活にも張りを失わせ、鬱(うつ)々として楽しまぬ一生を送らせる要因となります。また、<心身一如>の理によって、健康を損ねる恐れもあります。
この世は千差万別の現象によって成り立っています。人間の世界も同じです。それぞれの人が違った体力・頭脳・性格・才能等々をもっています。いわゆる持ち前があります。その持ち前をフルに発揮しさえすれば、地位がどうあろうと、職業がどうあろうと、人間としての値打ちに差はないのです。それなのに、今のような民主主義の時代になっても、まだ頭のどこかに職業や地位によって人間の貴賤が分かれるような観念をもった人が多く、それが劣等感を生むのです。
バイオリンの名手も、その陰に良いバイオリンを作る工人がいてこそ、華やかな演奏活動ができるのです。名もない絵の具作りの職人がおればこそ、ルノアールもマチスも数々の傑作を生み出すことができたのです。どんな大会社でも、社長や重役ばかりで平社員や工員が一人もいなかったら、手も足も出ないでしょう。それぞれの人が、それぞれの分(ぶん)に応じて全力を尽くすならば、名バイオリニストもバイオリン作りも、大画家も絵の具職人も、社長も平社員も、まったく同格なのです。下積みだからといって、決して卑下することはありません。
【わたしの所感】
私は、10代後半~20代中頃まで劣等感の塊でした。田舎から出てきて都会に住むことになって、学歴や容姿や性格も勝手に周りの人と比べて、優れている・劣っていると一喜一憂していました。今となれば、なぜそんなことを気にしていたのかと振り返ると笑ってしまうのですが、その当時はいつも悶々としていました。価値観が偏っていて、見えないヨロイをいくつも着ていたように思います。
それが、教えを学び、たくさんの人と出会い、信頼する方々にありのままの自分を受け入れてもらいました。そのことによって、自分や他人にもそれぞれの持ち味、分があるということを受け入れ実感できるようになり、変わってきたのだと思います。自由自在まではいきませんが、今はとても楽にいられます。皆さんはいかがでしょうか。次回までよろしくお願いいたします。

写真は三国祭りです。
天気も良い中、素晴らしい山車でした。奥には龍翔博物館が見えます。
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