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  • 後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん) 34号~

更新日:2021年12月9日

今日は「四諦(したい)の法門」の「集諦(しったい)」について学びます。


「集諦」の「集」というのは「自分の日ごろの考え方、見方、行いの集積(しゅうせき)」ということです。人生苦が起こればそれを招いた原因が必ずあるはずです。

「集諦」とは「苦の原因を探求し、はっきりと見きわめる」ということです。

ところが、私たちは、苦が出てくると苦の原因は、まわりの人や、環境、条件がつくり出していると思うものです。

しかし、苦の原因は、自分のものの見方や考え方にあることが多いのです。人間関係に不満を抱いたとき、自分自身を振り返ってみると、「私も、あの人に上から目線で、思いどおりにしたいという心でふれあっていたな」などと、思い当たることがあります。

「諸苦(しょく)の所因(しょいん)は貪欲(とんよく)これ本(もと)なり」とお経にあるように、苦の原因は「貪欲」という、次々と欲を出して満足をしない心、相手を自分の思いどおりにしたいという自己中心の心と教えていただきます。そのことを反省して、相手にひとことおわびすれば、お互いの関係も修復されていきます。その意味でいま、苦だと考えていることの原因は、どこから生まれたものかを、はっきりと見つめることが大切なのです。

そして、この苦の原因を見きわめようとするときに、いちばん気をつけなくてはならないのが、苦の原因を人のせい周囲のせいにしないことです。

「人は自分でつまずいても、それを石のせいにする。石がないときは坂のせいにする。坂がないときは靴のせいにする。とかく人間というものは自分のせいにしないものだ」という外国の格言があるそうですが、自分だけ、いつも原因の外に置こうとするのです。苦の原因が自分にあると諦(あきら)かにすることがいちばん大事なのですが、それが自分を責めることだけに終わるのではありません。この苦しみは自分のどこに間違いがあったのかを教えてくれ、それを直すきっかけを与えてくれるもの、と積極的に解釈することが大切なのです。


今日は、苦が出てきたときに、人のせいにせず、苦の原因はどこから生まれたのかを見つめてみましょう。

















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