今日(1月25日)で、寒中読誦修行6日目になりました。本部映像に合わせてご供養されている方も多いのではないでしょうか。残りの期間も皆さんと心一つに取り組んでいきたいと思います。
私は、朝のご供養が終わると、習慣として開祖さまの平成法話集『我汝を軽しめず』を一節ずつ拝読して、その日の心構えにしています。先日、拝読した中で、橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌が紹介されているところがありました。会長先生も橘曙覧の歌を佼成のご法話で引用されていました。
最近、その橘曙覧は福井の出身であり、橘曙覧記念文学館が歩いていける距離と知って、教会の帰りに寄りました。橘曙覧を身近に感じる機会となりました。
「そうだ!私も一日の振り返りとして、夕方のご供養後に、『たのしみは……時』と詠もう」と決め、書き始めました。何気ない中に楽しみや感動を味わっていきたいと思います。
○「身近な幸せに感謝する」
現在の日本では、ほとんどの人が物質的に恵まれた生活を送っていると思います。ところが、そうした生活に感謝ができず、不足のタネを探してはグチをいう人も少なくないようです。
昔から「欲の器には底がない」といいます。「あれも、これも」と求める気持ちが強いと、必要なものはすべて手にしているのに満足できず、いつも不平不満で暮らすことになります。それよりも、身近にあるたくさんの幸せに目を向けていけば、どんなに気持ちが楽か知れません。
江戸末期の歌人の橘曙覧(たちばなのあけみ)に、「独楽吟(どくらくぎん)」という一連の歌があります。
「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」
「たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時」
いかがですか。花が咲いた、雨が降ったというような、何でもないことに楽しみを感じているのです。こういう「喜びの目」をもつ人は、それだけで幸せといえるでしょう。
また、こんな楽しみも歌われています。
「たのしみはあき米櫃(こめびつ)に米いでき今一月(ひとつき)はよしという時」
「たのしみはまれに魚(うお)煮て児等(こら)皆がうましうましといいて食う時」
清貧の生活のなかで、何でもないようなことに楽しみを感じているのですが、こういう明るい受けとめ方ができたら、それだけで幸せなはずです。
法華経の「譬諭品(ひゆほん)」にも、「諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し」と説かれていますが、この世界は困難な問題が次々に起こるようになっています。ですから苦労が多いはずなのに、よくよく自分をふり返ってみると、むしろ恵まれた状態にあることのほうが多いのに気づくことでしょう。
それは、仏さまが救いの手をさしのべてくださっているからです。そのことに気づいて、「常に仏さまが守護してくださっている」という確信に立つと、たとえ厄介な問題に直面しても、それが仏さまの「お慈悲」であると見えてきます。
目の前に見せてもらうことは、すべて仏さまの「お手配」に違いないと思うと、どんな問題も明るく受け止められるのです。
(『我汝を軽しめず』P91より)
ちなみに、私の独楽吟は、「たのしみはこの通心視る人想いパソコン画面に向かう時」^_^
足りないところを見るのではなく、日常の何気ないことに楽しさ、有り難さを見つけていきませんか。
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