寒修行も3分の1が過ぎました。教会においても、寒修行のお役のタスキを各支部がつないでいます。
開祖さまのご法話を拝読すると、「縁」「出会い」等の「縁起観」のご法話がたくさんあります。今日からは、「縁起観・因縁果報」について、開祖さまご法話「縁を大切にする」(佼成1994.11)から学んでいきましょう。
○因と縁からすべては始まる
仏教とは“縁起教”といってもいいほど、縁起・因縁ということを大事に考えています。
私たちのまわりには、毎日さまざまなできごとが起こっています。それがどのような順序次第で起こってくるかは、「因縁果報」という言葉で示されています。
「因縁」の「因」とは自分の心の持ち方や行ないのことで、「縁」とは自分が出会う人や条件のことです。この因と縁が出会うことで、その結果として喜怒哀楽といった果報が生まれてくるのです。
舎利弗(しゃりほつ)が、お釈迦さまのお弟子になる前のことです。王舎城(おうしゃじょう)の町で一修行僧が托鉢(たくはつ)をしていました。その清々(すがすが)しい姿と穏やかな態度に驚いた舎利弗は、その僧に問いかけました。
「あなたのお師匠さんはどなたですか?どんな教えを説かれるのですか?」
「私の師は釈迦牟尼世尊といいます。わが師は『すべてのものごとは因と縁が結び合って生じる仮の現われであって、その因と縁が滅すれば、そのものごとも滅する』と説かれます」
その答えを聞いて、舎利弗はさっそくお釈迦さまのもとに入門したのです。
舎利弗はそれまで、サンジャヤという宗教者の師範代として大勢の弟子を指導していました。そして、この世で最高の教えを探し求めていました。その舎利弗が、町で出会った修行僧という縁によって、お釈迦さまの教えに導かれたのです。
この話のように、縁というのは、因にふさわしい縁が出会うもので、自分という因が善であれば善い縁が寄ってきて、そこに生じる結果はおのずから善い結果となります。これが「善因善果」です。それとは逆に、悪因で始まると出てくる結果は悪果になってしまいます。
因縁果報というように、すべては因と縁の出会いによって始まります。これは、私たちにとって人さまとの出会いがいかに大事かということです。そこにいわば「出会いの行」が始まるのです。一つの縁に出会ったとき、どのような気持ちで対処するかによって、喜びの結果にもなれば、苦悩の結果にもなるのです。
出会った関係をよくするのも悪くするのも、自分の気持ち一つです。自分の一念(いちねん)が穏やかで、素直で正直に動いていれば、その結果は自然によい結果が実ります。人さまに出会ったときには真心をこめて接し、何か頼まれたことでも誠意をもって実行していくと、結果は必ずいい成果として返ってくるのです。
一念の念とは今の心、自分がどのような心で相手やものごとに出会うかが大事ですね。
今回も、「縁起観」を意識して、善い「因縁」(出会い)を結んでみましょう。
次回までよろしくお願いします。
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