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後藤教会長

~教会長のいい福通心(つうしん)78号~

更新日:2022年3月14日

最近のいい福通心では、縁起観をずっと紹介しています。開祖さま、会長先生のご法話には「縁起観」を説かれたご法話がたくさんあります。仏教の経典の中には、「法を見るものは我を見る。我を見るものは法を見る」という言葉があります。そして「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」という言葉もあります。縁起の観方をしっかりと身につけていきたいと思います。

今回も「縁起観・因縁果報」について、開祖さまご法話「縁を生かす」(佼成1997.4)から学んでいきましょう。


○支えられている自分

太陽系の微妙な位置関係で、地球は水に恵まれました。人類はじめ多くの生物が存在するのは、水のあるお陰さまです。その水も、97パーセントは海水で、暮らしに使える水は、全体の0.8パーセントにすぎないと言われます。

稲が実るには、穀米という因があってのことですが、その穀米が生長するには、太陽の光や水、土という縁(条件) が必要です。一滴の水、一粒の米にも、無限の因縁がからみあい、宇宙がそっくり織り込まれているといってもいいと思います。一杯の水、一粒のお米にこめられた大勢の人の手間や、大自然の恩恵を味わうほどに、感謝が深まり、合掌せずにはおられません。

生きとし生けるものすべては、宇宙の大いなるはたらきによって、互いに他の存在を必要としながら生きています。それが因縁ということであり、縁起という言葉も同じ意味です。「縁(よ)りて起こる」と読みますが、何かが起こる原因や過程ということではなく、お互いを生かし合う関係なのです。

心も同じです。多くの人との出会いや語り合いなどの体験を縁として、成長していけるのです。

すべてが支え合っているのですが、目に見えるヒモで結ばれているわけではないため、実際に目に見える物やお金のほうを大事に思いがちです。しかし、自分が目に見えない「縁」によって支えられていることが分かると、感謝の生活が始まります。

その意味で、「人」という字は、よくできていると思います。「ノ」の、ちょうどいい位置に、杖のようにもう一本の支えがあって「人」という字になります。二本の棒が支え合う位置が、上すぎても下すぎてもぶかっこうになってしまいます。どちらが支えているのでもなく、寄り添う加減のちょうどいい状態。それは、お互いが、気持ちよく「お陰さまで」「こちらこそ」と言い合えるところだと思います。


今回は、「縁起観」を意識して、たくさんの縁をいただいていることに感謝を深めてみませんか。

次回までよろしくお願いいたします。




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